日々のあれやこれを好きなように綴っています。

ただひたすらに・・・。

ヤフーブログからきました。

心の中を整理する①

ここのところ私にしてはめずらしく、予定が詰まっていて1つ1つのことを時間をかけてこなし続けているうちに、体調を崩してしまいました。はい。

最初はのどが痛くなって、その後に鼻にくるのですが、毎回ひどくなってから行くもんだから、なかなかマスクを手放すことができない。軽い蓄膿症にもなってしまい、常にティッシュを持っていないと不安。

今日は休めなかったから、本当につらかった。
来週はバイトが週5であるから、史料調査を今週中に何日かに分けてやらないといかんかったし、昨日は大学で研究発表と飲み会があったから1日つぶれてしまったし・・・。
しばらくひきこもりたい。

ついつい日ごろの鬱憤が。
そんな中で、色々思うこと、考えさせられることがあったので、まずは先週金曜日の話から。

先週の金曜日は、学習支援の学生ボランティアとその支援者の交流会(飲み会)があって、そのうちの1人に某教育大学の先生をされている方がいた。
その先生の研究が青年期の学校教育で(主に中学、高校。)、「いじめ」の話題があがった。

とあるアンケートで、「いじめている、いじめられていると思ったことがある」と回答した人が9割だったらしい。
つまり、多くの人が「いじめ」の被害者、加害者になっているということだ。

ただ、いじめていると思ったことがあると回答した人の中には、いじめをただ見過ごしてしまったという人もいるので、全員が全員、実際にいじめの実行者という訳でもない。(「いじめ」の傍観者も加害者だという意見もあるため、ここでは加害者ではなくあえて実行者という言葉に置き換えた。)

また、両方を経験している人は、7割近くだったらしい。
ある時、いじめのターゲットが急に変わるということは、ざらにあるらしい。

私は両方経験しているし、いじめのターゲットが変わった瞬間もこの目で見たことがある。
他の学生ボランティアは、あまりそういう場面に遭遇したことが無いらしく、「そう思ったことはないですね。」と皆答えていた。だから、私も適当にそう答えた。

でも、それは「いじめ」としてではなく「イジリ」として認識しているからではないか。
「いじめ」はいじめられている人が「いじめ」と思えば「いじめ」なのらしい。
「いじめ」と「イジリ」の境界線を考えると長くなってしまうのでやめるけれど、「いじめなんてありません。」と思っている人ほど、「いじめ」を身近に感じてなく、テレビや小説の話だと思ってはいないか。
それだけ、身近にある「イジリ」を深刻に受け止めていないのではないか。

というようなことを頭の中で考えつつも、善者ぶる自分に嫌気がさし、のどが痛いのにかまわず酒を飲み続けた結果、風邪が本格化した。