日々のあれやこれを好きなように綴っています。

ただひたすらに・・・。

ヤフーブログからきました。

斉藤和義になりたい。

タイトル通りです。
斉藤和義になりたい。

最近つくづく思う。
生きづらい世の中だなと。
そんな世の中を、斉藤和義は自由に表現し、自身も自由に生きている気がする。
特に「Because」というアルバムに入ってる曲は、結構そういう曲ばかりだと思う。

そんなことを思うのは、自分の中で迷いがあるから。
自分の中にはいくつかの自分がいるんだよね。

自分A「販売職やりたい。接客したり、売り場づくりしたい。」
自分B「何にもしたくない。卒業後はニート。」
自分C「休みの多い仕事がいい。例えば大学事務員とか。とりあえず、事務職がいい。」
自分A「休みは週休2日で、土日休みじゃなくても大丈夫。とりあえず週休2日なら、残業もOK。」
自分C「私は、お盆休みとか正月休みとかほしいね。残業も嫌。販売職とか絶対自分の思うように休めないじゃん。」
自分B「私は、そもそも働きたくないね。一生親元で寄生虫やってるわ。」
自分D「そもそも、卒論やりながら就活とか無理ゲーじゃん。1年じっくり休んでいろいろ考えたい。」

とりあえず、今いる頭の中の自分を出してみた。
自分Aは、バイト経験生かせる販売職をやりたいと考えている。
でも、他の自分が「性格上、無理だろう。」「バイトと社員は違う、甘い考え。」と否定する。

自分Bは、自由に何も考えずに生きたいと考えている。
でも、他の自分が「それは、斉藤和義の歌にもある社会生活不適合者の典型だね。」
「世間の目が痛いからやめてください。」と否定する。

自分Cは、妥協案として休みの多くて人とあまり接しないような仕事をすればいいと考える。
でも、他の自分が「そういう仕事って競争率激しいし、自分が勝ち残ると思えない。」「それって本当にやりたい仕事なんですか。」と否定する。

自分Dは、とりあえず議論が落ち着くまで休みましょうよと声をあげてみる。
でも、他の自分が「1年休んでも一緒だろ。」「一時的に棚に上げたって、問題の解決には至らない。」と否定する。

やっぱり、自分がやりたい事やろう。って自分Aの考えに戻るんだけど、結局不安要素があるから、永遠ループしちゃうのね。
でも、自分Aを支持する自分Eが出てきて、「人見知りでコミュ障だけど、チャレンジしてみようよ。」なんて言う。
「じゃあ、頑張ってみます。」と宣言すると自分BとDが「それで本当にいいのかよ。」と抗議する。

今日は自分BとDが優勢で、二人の意見を先生に述べたら遠回しに否定された(当たり前なんだけど)
ちなみに自分Aがおそらく本体の自分に近いはずなんだけど、この子の意見を先生に話したことはないんだよね。やっぱり、自分の性格を知っている人ほど話しづらいんだよね。例えば、バイト先のパートさんとかにもこういう話できないし(まぁ、それが本職でその道のプロだからというのもある。)
なんで話せないかって、否定されるのが怖いんだよ。
あなたには、向いてないとかさ。言われるの。やる前から言われるの。

そこで、自由に生きたいというところに戻ってくるわけ。
でも、斉藤和義の自由と私の自由は違う箇所がある。
斉藤和義の場合は、自分らしく、自由に生きる。これが表現者として生かされている。
私の場合は何もせず何も考えず自由に生きる。しかし、このように生きたところで周りに迷惑をかけるだけである。

結局、何が言いたいのか?
今を生きるのが、不安で不安で仕方ないということ。なのかな。
うまくまとまってないけど、まぁいいか。